top of page

◯「工藤礼二郎 - 積層と透層」  美学者 谷川 渥

 (2021年 個展テキスト 於、宇フォーラム美術館)

    

 抽象絵画とは、画面のなかにこれこれと名指すことのできるものの存在しない絵画である、とさしあたって定義することができるかもしれない。われわれがこの世界で目にする事物を画面上に再認しえない絵画であると。とはいえ、そこに線や帯や点や図形、はたまた渦や流れや滴りや垂れや跳ねやうねりといった、なんらか運動性を帯びた形象性を見てとらざるをえないのも、また抽象絵画の特質であろう。それゆえ、人は幾何学的な形象を特徴とする静的な抽象を「冷たい抽象」、ストロークやタッチなど筆の運動性の際立つ表現主義的な抽象を「熱い抽象」などと呼んで、そこに便宜的な区別を導入してきたわけである。もとより、すべての抽象絵画がこの二元論的なカテゴリーのなかにすっきり収まるわけではない。われわれの企画になる「表層の冒険」展に参加された抽象画家たちの多様多彩な作品群を目の当たりにすれば、この二元論をなお想起させる作品に出会うこともないわけではないにせよ、しかし総じてこうした素朴な区別はもはや失効していると感じざるをえないだろう。

 工藤礼二郎の作品は、その意味でなかでも特筆すべき存在性を示している。それは、幾何学的形象性はもとより、いかなる表現主義的な運動性をもまったく感じさせぬ、ただひたすら黒あるいは白の画面として現前しているように見えるからだ。この思わず禁欲的と言わざるをえない画面のありようはただごとではない。

 直ちに想起されるのは、まずもってマレーヴィチの作品である。白地に黒い正方形を描いた《黒い正方形》や白地に白い正方形を斜めに配した《白に白》といった作品によって、写実性・描写性・具象性の美術史に否をたたきつけ文字どおり白紙還元を狙った一九一〇年代のいわゆるシュプレマティスムの試みである。彼は非写実性の「感覚」で満たされた「無」あるいは「砂漠」を志向したが、結局はその不毛性に耐えられず二〇年代には具象絵画に回帰して美術史上から姿を消した。神智学に傾倒したマレーヴィチが、たとえその白の「無」のうちに神智学的な光を見ようとしていたとしても、しかし言うなればその白あるいは黒は、そのかぎりで白であればいい黒であればいいという意味での白や黒である。《白に白》の場合、地の白と正方形の白とはもとより色相が異なり、だからこそ形象性が認知されるわけだが、二様の白そのものにそれ以上のなにか(意味と言ってもいい)が託されているわけではない。

 工藤の作品は、それがあたかも全面的に黒く、あるいは白く見えようとも、マレーヴィチの作品とは明らかに異なる。黒い画面を丹念に見つめてみよう。そうすれば全面的にモノクロームと見えた画面が、たんに黒の絵具が一面に塗られたものではなく、ストロークやタッチといった筆致の痕跡をいっさい感じさせずに様々な絵具が幾重にも慎重に塗り重ねられて黒く見えるように現象したものだとわかってくる。画家自身の言葉を援用すれば、有彩色の積層あるいは透層から黒がもたらされるのだ。絵具の三原色、とはつまりすべての有彩色を混ぜ合わせれば、限りなく灰色あるいは黒に近づくという色彩理論に基づくわけだ。工藤が実際にどんな「有彩色」とメディウムを用いて画面を仕上げるのかは詳らかにしない。だが油彩であるからこそ可能な色彩の積層と透層による繊細微妙なイリュージョンの創出可能性が、禁欲的な苦行にも似た作業の賜物であることは推測される。イリュージョンとは、黒い画面が決して黒そのものになりえず、逆説的にもそこにわずかな色相の差異性の感覚をもたらすということである。それがときに闇の光といった卓抜なイリュージョンを現出させもするのだ。

 グリーンバーグの命名になるカラー・フィールド・ペインティングを想起することもできる。大画面に縦の線(ジップ)の入ったバーネット・ニューマンの作品は、そのジップの両側に色面、「カラー・フィールド」を持つ。この色面もまた決して一様ではなく複数の色相の微妙にして周到な重なりから成るが、作品の意味はあくまでもジップと色面との組み合わせにある。色面そのものに意味を託そうとしているわけではない。他にマーク・ロスコの作品などを思い浮かべながら、工藤の作品をカラー・フィールド・ペインティングと呼ぶことが必ずしも間違いではないにしても、その思想的背景をも含めた作品の生成と経緯からすれば、同じ呼称で括って事足れりとするのはやはり妥当とは言えないだろう。

 一九六〇年代にいわゆる「ブラック・ペインティング」で登場したアド・ラインハートについてはどうか。工藤の作品と同じように、色彩を否定するミニマルなモノクローム作品に見えるが、しかしその画面を熟視すれば、じつのところそれが幾何学的にいくつかの色面に分割されていることがわかる。キュビスムから出発した画家ならではの微妙な積層と透層の効果である。その周到な画面構成は工藤のそれと似ていなくはないが、巧みに覆われたマチエールの向こう側に色彩のコントラストあるいは色面分割が透けて見えるかぎり、やはり同列に語ることはできない。

 工藤の長年にわたる「黒」(と便宜的に呼んでおく)の作品群は、有彩色の混合によってかぎりなく黒に近づきながら、しかしまたその黒に潜在する有彩色があたかも逆にそこからかすかに発出してくるように見えるイリュージョンを生み出すところに醍醐味があると言えるかもしれない。作品の禁欲性は、そうした生成の官能性と表裏一体をなすと見ることもできる。

 こうした「黒」に関する実践を、工藤は近年「白」についても試みようとしている。だがはたして「白」に積層と透層は可能なのか。白絵具に白絵具を重ねることはできる。しかしそこに少しでも色相の差異を導入しようとすれば、どうしても他の色彩を介入させざるをえない。メディウムによる微妙な処理がほどこされたとしても、しかし白は濁らざるをえないだろう。実際、画家は、油彩による「白」作品が制作後短時間で黄変することに気づき、油彩からアクリル絵具の使用へと転換したと証言している。そして筆だけでなく刷毛、エアブラシ、スプレーガンなどの道具も用いるとも。だが、これは油彩とアクリルの差異、使用する道具の多寡によって解決する問題ではおそらくあるまい。

 光の三原色を混合すれば、白い光が現象する。絵具の三原色を混合すれば、かぎりなく黒に近づく。それゆえどんなに絵具を処理しようとも、光のような白は現象しない。白を重ねて積層を実現することはできる。しかし、現象学的とも言うべき色彩論を展開したウィトゲンシュタインが、その『色彩について』のなかで、白の透明性が不可能であることをさかんに強調していることに注意しよう。たとえば、「透明なものが緑であることは可能だが、白であるのは不可能」だという。ウィトゲンシュタインの主張を工藤の作品に援用すれば、有彩色は透層が可能だが、白の透層は不可能であるということになろう。白の積層が白の透層の現象可能性を保証するわけではないということだ。

 ほとんどモノクロームに見える工藤の「白」作品は、その可能性に賭ける逆説的ともいうべき試みの軌跡にほかならない。「光」は「闇」のなかからしか出現しないのか、それとも画面全体による「白」い「光」の生成に立ちあうことが可能なのか。工藤の作品の前に立つとは、そうした問いの前に立たされることでもある。

ラセン

REIJIRO KUDO       工藤 礼二郎

bottom of page