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◯「光がもたらすもの… 」 東京都現代美術館学芸員 藪前知子

   (2017年 パースペクティブ展カタログより ギャラリエ アンドウ)     

 

「色彩は光の行為である」とゲーテが『色彩論』において書いたとき、彼は、色彩の認識には、光に対して、それを捉える観者の目の働きが大きく関わっているのだと主張した。光の屈折率として色相を分類し数値化したニュートンに対し、ゲーテは観者の内的感覚によって把握され、そのつど生成するものとして色彩を捉える。「眼が存在するのは光のおかげである。」と書くゲーテは、そこに古代の哲学者の言葉を付け加える。「もし眼が太陽のようでなかったら、どうしてわれわれは光を見ることができるだろうか。もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか(1)。」ゲーテは、私たちの内側にも光が存在しているからこそ、外の光が現れ出ることができるのだと指摘する。近代的な理性主義に一石を投じようとした彼の研究は、光をたよりに可視の世界を掘り下げた結果、そこに付随する精神性や想像力などの不可視の領域に言及していくことになる。

                    (中略)  

 

 工藤礼二郎は、あらゆる色彩の異なる絵の具を幾層にも塗り重ねる膨大な作業のもとに、一枚のカンヴァスを実現する。色の体積が生み出す複雑な輝きを保ちながら、画面全体は、黒か白の、ひとつのトーンへと収斂していく。かつて晩年のモンドリアンは、平面を塗りながら、そこに筆触がある限り、イリュージョンが発生するという問題に悩まされた。工藤は、研磨してマチエールをならしつつ、物質性もイリュージョンも生み出さない、言ってみればカンヴァスが光そのものに変換される瞬間を目指す。その絵画は、象徴主義絵画に頻出する「窓」のモチーフに似て、一枚の画面に全ての瞬間が圧縮されたものとして私たちの前に現れる。さらに、モノトーンの画面ながら、工藤の画面には、中央に光が集まっているような、求心的な動きを見いだすことができる。ヒューマンスケールとも言うべきサイズの画面に向き合ううちに、北方ルネッサンスの絵画を彷彿とさせる精神性を宿した光とともに、鏡に対峙しているような感覚が呼び起こされる。ゲーテに倣えば、そこに「自らのうちにある光」に出会う瞬間があると言えようか。

                   (中略)  

 

 見えるものと見えないものを繋ぐ媒介物と言うべき「光」という主題は、単なる物質でしかないものに、私たちがなぜ精神世界という不可視の領域を見いだすのかという、視覚芸術の本質に迫る問いをはらんでいる。本展はこのことを強く印象づける貴重な機会であった。作家たちが、それぞれ唯一無比の手法を磨き、さらなる豊かな光を見せてくれることを期待したい。

 

(1)ゲーテ『色彩論』木村直司訳、ちくま学芸文庫、2001年、p.113                                                                                                  

          

 

 

◯「わたしの眼差しと他者の眼差しの中で」 美術評論家 早見 堯  

   (2006年 個展リーフレット ギャラリー現)

 

 見ることは不思議な経験である。怖いものを前にしたときには目をおおってしまう。目をあけていると怖いものがわたしのなかに侵入してきそうだからだ。もし目をふさがなければ、怖い対象、すなわち他者が勝手に襲いかかりわたしを破壊し失わせてしまいかねない。見さえしなければ問題はおこらないのだから。 絵画を見るとは怖いはずの他者の侵入を受けいれて、わたしが破壊され逆に新たに生まれ変われるかもしれない期待に身をゆだねることだ。見ることでわたしは揺るがされ脱中心化されるのである。これが感動するということだ。わたしの眼差しを他者の眼差しが侵犯するのである

 工藤礼二郎の絵画では見えているものはすべて絵画の中に存在しているにもかかわらず、見ているうちにそれまで気づかずにいたものが遅延された時間とともに次々と立ち現れてくるように感じられる。描かれてそこに最初からあったものなのか、それとも見ているうちに生まれてきた幻視なのかわからなくなってしまう。現に見ている外部のそこには存在しないなにかが、わたしの無意識の深みから生みだされてくるかのようではないか。 だから、見ているわたしは激しく揺るがされる。わたしの眼差しは幻視や無意識といったわたしの中の他者の眼差しとなってわたしを脱中心化するのである。

こうして、工藤の絵画はそこにあるものとそこにはないもの、わたしの外部にあるものとわたしの内部で生成されているものとの狭間に現れてくる。いいかえると、見えるものと見えないものとの生成消滅や葛藤、あるいはその間で絵画が経験されるということである。

 見えるものと見えないもの。これはモダニズムの抽象絵画のメインテーマだった。物質的な感覚的世界から離れて、非物質的な精神的な表現を実現しようとしたのが創成期の抽象絵画である。目に見える感覚的な色と形で、目に見えない精神的なものを表すというアポリア(解決不可能な問題)に挑戦したのだ。目に見える色や形を見えなくしてしまったら絵画ではなくなるし、目に見えている限り絵画は精神的なものにはならない。これの解決方法は、絵画の空間を平面化して、絵画から目に見える色や形をできるだけ少なくするか、現実の色と形を最小限の要素だけに還元して絵画に用いるかの二つだった。前者はロシアのカジミル・マレーヴィチ、後者はオランダのピート・モンドリアンである。見えるものを少なくした感覚の臨界点で見えない精神的なものを出現させる方法だ。

 工藤の方法はそれらとは違っている。絵画の空間を平面的にするのでも、色や形を少なくするのでもない。逆に色を多くする。色の層を何重にも重ねることで、色と色の融合と離反という葛藤を引き起こさせる。色を使いながら色を消していくことでもある。色の顕在と隠蔽あるいは生成と消滅とが同時に起こっている。 形はどう扱われているのだろうか。画面型と同じ形が色が塗られるごとに次々と生成消滅を繰り返して更新されていく。こうした画面型と一つになった形は、「地」の上の「図」であるような形とは違うのでフィールド(場)というべきだろう。

 多数多様な色や形をふんだんに注ぎ込みながら、それらを顕在と隠蔽、生成と消滅の中で混一化させて個別の色や形としては見えなくしている。その結果、色に関しては光と闇、形に関しては画面全面への充満と空虚の相反するものが共存した暗くて明るく、沈んでいるのに輝いている空間が生まれている。光と闇、充満と空虚はわたしと他者の眼差しとに呼応して生成消滅を繰り返すので、呼吸し息づいているかのように感じられる。 絵画を見るわたしを他者の眼差しで揺るがしたように、色と形も光と闇、充満と空虚の相反する他者の侵入によって揺れ動かして脱中心化し、もはや色と形とはいえないものにしているのである。

 

 

 

 

 

 

◯「透層の絵画−光と色彩」 美術評論家 早見 堯

   (1998年 個展リーフレット 於 GALLERY  TAGA)

 

 工藤礼二郎の絵画は灰あるいは黒に近い表面が、それとは逆の微妙な色彩の輝きと深さをともなっているところが特徴である。限りなくモノトーンやモノクロームに近づいていながら、正反対の色調の差異やポリクロームの現れを見せている。灰か黒やモノトーン、モノクロームに近づくのは、幾層にも絵の具の層が重ねられているからである。  不透明な絵の具は重なれば文字どうり灰や黒に近くなっていくが、透明な絵の具は光をたたえた独特な暗さをかもし出す。有彩色のいわゆる透層(ラズール、グレーズ)が下層の色彩と呼応しあったときに現われてくる光の輝きといえよう。工藤の絵画は、この透層の特有な扱いから生み出されている。  油絵の具に特有の絵の具の重層による表現を後方におしやり、ここ百年以上にわたって絵画の可能性を独占してきたのは、浅い空間と色彩のコントラストだった。印象主義以後の絵画では、タッチやストローク、面であろうと色彩の断片の併置が主要な方法となった。併置は表面上での色彩の軽快な戯れを得意としている。繰り返しや分割という現代美術の平面的な手法に結びついたのも周知のことだ。けれどもこの併置の可能性が疑問視されるようになって描くことや、絵の具の重層、トーナルな表現の可能性が今一度顧みられるようになっている。工藤の絵画はこうした動向の中に位置している。  光はいつも明るさとともにあったわけではない。工藤の絵画の色彩は、印象主義的な併置によるコントラストをこととする再現的な明るい色彩ではない。暗さの光だ。イタリア系統の形態や構築性でもなく、フランドルやオランダ絵画の透明な光と表面への関心を継承している。光はいつも色彩と関係を持っていたわけではない。伝統的な透層の表現が光を明暗の調子としてとらえたのに対して、工藤は光を色彩に変換している。工藤の絵画は、暗さの中で光と闇が交錯してうまれる光=色彩であり、絵の具というメディウムが自立的に生み出す具体的、現実的な光=色彩でもある。                    

 

 

 

 

 

 

 

 

◯美術評論家 鷹見 明彦(1998年 個展DM 於、ガレリア  ラセン)

    

 不意に暗がりに遭遇したときのように一瞬瞳孔をひらかせる暗色のフィールドペインティング。モノクロームに見える画面は筆致の痕跡を慎重に消沈させながら、複数の色彩を幾度も塗り重ねた励行の賜物である。アド・ラインハートの到着点を一つの指標として、絵画の特質をそのマチエールに覆われた平面性にミニマルに還元する地点に置く工藤の作品は、モダニズムまでの絵画史を踏まえて厳粛なフィールドの裡に温かな色彩に光と調律の肌理(きめ)を匿している。すべてが足早に過ぎる時代の淵で、それは最も遅延しながらゆっくりとした積層をとおして、もっとも遠く深いところへとどこうとするカノンの響きに親和する。