映像作家ピーター=リム・デ・クローン監督の映画「オランダの光」では、ヨーゼフ・ボイスが17世紀オランダ絵画の源となった独特の陰影を持つ同地の自然光が1950年代に行われた湖の干拓により失われてしまった、と指摘したことに始まる。果たしてそうした光は実在し、そして本当に失われてしまったのか。それらを実証的に解き明かすことも興味深い一方、私が実際に訪れたオランダでは脆弱な光の中、磨き上げたレンズ越しに暗さの中をどこまでも視線が届くような感覚を覚えたことも強く印象に残っている。昨今の日本で日常の中に美しい光を見出すことがめっきり少なくなったように感じるのは私だけだろうか。

(22/10/2020)

昔読んだロバート・ローゼンブラムの『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』ではフリードリッヒなどに代表されるドイツロマン派の画家の神秘性や精神性がマーク・ロスコやバーネット・ニューマンに繋がっているという説で興味深いものでした。ちょうどその頃、私はヨーロッパ各地で十五世紀初期フランドル派の光輝くメチエに魅せられ、その油彩技法を抽象絵画に活かせないかと思ったのが当時の作品づくりの端緒となりました。

現在、油彩はアクリル絵の具に変わり筆や刷毛と同時にエアブラシやスプレーガンも使いますが、絵画の内側に宿る光と共に、その先に至る没入感や精神性に出会うことは変わらぬ願いなのです。

(八色の森の美術展 - えっ!からはじめよう。-図録より / 2019)

抽象絵画に向き合うようになってから常に制作の指針にしてきたことの一つは、バーネット・ニューマンの言説による「絵画はプラスチックではなくプラズミックでなければならない」ということです。

未だプラズミックとはどういうものなのか確信を得ぬままですが、色と光、表層と深層、空虚と充実、モノクロームとポリクロームといったアンビバレンツなことがらの間を探ることがその実現に少しでも近づくのではないか、と思いながら制作を続けてきました。

そしてその先に求めるもの、それは光そのもの、絵画それ自体における光なのです。

(表層の冒険 - 抽象のミュトロギア- 図録より/ 2019)

学生の頃、京都の塔頭で見た長谷川等伯の<山水図>。一頻りの解説が終わり室内の電灯が切られた瞬間、それまでとは全く異なる別の世界が浮かび上がったように感じられた。それは庭からの自然光を微かに浴びて、薄暗い室内の向こうに無限の広がりを湛えていた。光は人間の目を、そして絵画を通して多くのことを無言のうちに問いかけてくれる。私はそうした絵を描きたい。

(八色の森の美術展 - ことの葉のかなたへ- 図録より/ 2018)

描く行為は塗る行為とどこに差異があるのだろうか。 支持体に白色塗料を塗布し、丹念に研磨し終えた状態の 表面がなによりも美しく、暫し描くこと自体を不毛に 感じてしまうことが多々ある。 しかし絵画がただの物体でない限り、その輝きと美しさを どのようにして表出するかが大切な問題だ。作為的な描く 行為の繰り返しではそれらをいたずらに奪ってしまうことに なりかねない。下層の白と上層の色彩が一体となり、光として 立ち現れてくるまでは、卑近な描画を抑制し塗りと研磨とを 我慢強く繰り返すことが肝要だと感じている。 そしてそうした行為の先に求めるものは「色と光の臨界点」 であり「透明な白」の世界である。 物質を超える存在に出会うには、より物質と対話する以外に ないのではないだろうか。 それはあやふやな自分自身の存在を頼りに描こうという のだから尚更のことなのだ。

(表層の冒険 - 抽象のアポカリプス- 図録より/ 2017)

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