REIJIRO KUDO       工藤 礼二郎

学生の頃から「白」の扱いで好きな画家の一人がピエール・ ボナールである。特に晩年の作品は平面的な画面構成がなされているにもかかわらず、その構成や形象が強く記憶に残ることは少ない。一方、室内の壁、テーブルクロス、浴室のタイルや 浴槽、といった白色のモチーフが周りの光と色彩を孕みながら主体を失い朧げに目と親和する。私にとって視覚だけを拠りどころに見続けられる絵画の一つでもある。 パブロ・ピカソはボナールの絵を「不決断の寄せ集め」と批判したそうだが、なるほどその通りなのかもしれない。しかしそれゆえに私はピカソのような革新性や時代性に一向に興味がもてないでいる。ましてや混迷を深める現代に対しては無力感を覚えるばかりで、私にできることといえば、微かな色彩の積層を頼りに、未だ「不決断」の白い画面が光として立ち現れるのを見とどけることでしかない。 

工藤礼二郎展 - Critical Point to Light -/2022

学生時代「平面と平板は違うんだよ。」と言ったS先生の言葉をぼんやり理解したつもりであっても、果たして的確に認識できているかどうか自信がもてず、慌ててバーネット・ニューマンなどの画集をめくったりしたものです。しかしそれは画集であり、美術や絵画を前提にしたものだから「平板」であるはずがない、と思い込もうとしただけではないか、という気持ちが拭えませんでした。要するに私の目にはニューマンらの作品は「平板」なものとして映っていたわけです。

後年、千葉の美術館で見たニューマンの作品は視界のほとんどがカドミウムレッドに覆われ、室内照明と左右からの自然光とが交錯する中、単なる色彩が光として立ち現れたかのような感覚を覚えました。その存在は到底「平板」などとというものではなく「作品の意味は語ることからではなく、見ることから生じなければならない。」というニューマンの言葉を実感した瞬間でもありました。

再びあの時の感覚を、と思っても日本ではもうその作品を見ることができなくなってしまったことが残念でなりません。

八色の森の美術展 - たおやかなまなざし -図録より/2022

茶室に設けられる障子を施した下地窓のひとつに「虹窓」というものがある。太陽の直射光は深い土間庇で遮られ、空中で 拡散した天空光のみが庭の植栽などに反射しながら窓へ入射する。それにより障子に映し出される影に多彩な色が顕われるというものだ。以前、京都の塔頭で実際に目にしたそれは切り取られた時間と静寂の中で極僅かな色彩の変化を認知できたかどうかというぐらいの淡いゆらぎだった。今、振り返ると実際はそのように思えただけの所謂、幻視だったのかもしれない。しかし淡くゆらいだままのその記憶は私が長く描こうとしている絵画の姿を指し示していたようにも思える。 

(工藤礼二郎展 - 宇フォーラム美術館 -より/2021)

一般にバロック絵画はルネサンスに対し過剰で演出過多と見なされるわけだがフェルメールやラ・トゥールなどの静謐な光の世界を前にするとやはり魅入られてしまう。まさにイリュージョンの賜だ。一方、抽象絵画の純粋性を求める上ではイリュージョンは現実直視を妨げる不純極まりない存在ということになる。イリュージョンを最小限に抑制しながら絵画に宿る光を通して不可視の世界に触れたい、との思いで描いているがイメージを伴うイリュージョンの誘惑は常に背後に潜んでいる。もう開き直ってそうした観点から描かなくても良いのではないかと思うこともしばしばだが、同時に全てを見失ってしまうかのような不安に駆られることも確かだ。私の制作の中で常に立ちはだかるアポリアである。

(表層の冒険 - 抽象のバロキスム-図録より/2021)

映像作家ピーター=リム・デ・クローン監督の映画「オランダの光」では、ヨーゼフ・ボイスが17世紀オランダ絵画の源となった独特の陰影を持つ同地の自然光が1950年代に行われた湖の干拓により失われてしまった、と指摘したことに始まる。果たしてそうした光は実在し、そして本当に失われてしまったのか。それらを実証的に解き明かすことも興味深い一方、私が実際に訪れたオランダでは脆弱な光の中、磨き上げたレンズ越しに暗さの中をどこまでも視線が届くような感覚を覚えたことも強く印象に残っている。昨今の日本で日常の中に美しい光を見出すことがめっきり少なくなったように感じるのは私だけだろうか。

(八色の森の美術展 - かたちになる力 -図録より/2020)

昔読んだロバート・ローゼンブラムの『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』ではフリードリッヒなどに代表されるドイツロマン派の画家の神秘性や精神性がマーク・ロスコやバーネット・ニューマンに繋がっているという説で興味深いものでした。ちょうどその頃、私はヨーロッパ各地で十五世紀初期フランドル派の光輝くメチエに魅せられ、その油彩技法を抽象絵画に活かせないかと思ったのが当時の作品づくりの端緒となりました。

現在、油彩はアクリル絵の具に変わり筆や刷毛と同時にエアブラシやスプレーガンも使いますが、絵画の内側に宿る光と共に、その先に至る没入感や精神性に出会うことは変わらぬ願いなのです。

(八色の森の美術展 - えっ!からはじめよう。-図録より / 2019)

抽象絵画に向き合うようになってから常に制作の指針にしてきたことの一つは、バーネット・ニューマンの言説による「絵画はプラスチックではなくプラズミックでなければならない」ということです。

未だプラズミックとはどういうものなのか確信を得ぬままですが、色と光、表層と深層、空虚と充実、モノクロームとポリクロームといったアンビバレンツなことがらの間を探ることがその実現に少しでも近づくのではないか、と思いながら制作を続けてきました。

そしてその先に求めるもの、それは光そのもの、絵画それ自体における光なのです。

(表層の冒険 - 抽象のミュトロギア- 図録より/ 2019)

学生の頃、京都の塔頭で見た長谷川等伯の<山水図>。一頻りの解説が終わり室内の電灯が切られた瞬間、それまでとは全く異なる別の世界が浮かび上がったように感じられた。それは庭からの自然光を微かに浴びて、薄暗い室内の向こうに無限の広がりを湛えていた。光は人間の目を、そして絵画を通して多くのことを無言のうちに問いかけてくれる。私はそうした絵を描きたい。

(八色の森の美術展 - ことの葉のかなたへ- 図録より/ 2018)

描く行為は塗る行為とどこに差異があるのだろうか。 支持体に白色塗料を塗布し、丹念に研磨し終えた状態の 表面がなによりも美しく、暫し描くこと自体を不毛に 感じてしまうことが多々ある。 しかし絵画がただの物体でない限り、その輝きと美しさを どのようにして表出するかが大切な問題だ。作為的な描く 行為の繰り返しではそれらをいたずらに奪ってしまうことに なりかねない。下層の白と上層の色彩が一体となり、光として 立ち現れてくるまでは、卑近な描画を抑制し塗りと研磨とを 我慢強く繰り返すことが肝要だと感じている。 そしてそうした行為の先に求めるものは「色と光の臨界点」 であり「透明な白」の世界である。 物質を超える存在に出会うには、より物質と対話する以外に ないのではないだろうか。 それはあやふやな自分自身の存在を頼りに描こうという のだから尚更のことなのだ。

(表層の冒険 - 抽象のアポカリプス- 図録より/ 2017)